寒暖差が気になりだした10月のこと。
川沿いの朝は特有の霧に覆われて、紅葉もかさなって風情のある季節。
濃い霧のためか、道路で車にひかれて死んでいる動物たちの姿も多いような気がしていました。
冬に備えてなのか、どこか活発化しているのだろうなと想像してました。
そんな朝に出逢った鳥。
こんなにまじかに見るのは20年ぶりくらいだと思います。
そう、フクロウ。
なんとなく温かい。
事故にあってから間もないようす。
形態や食性などを少し観察させてもらい、僕の知るフクロウの鳴き声がよくきこえる場所に埋めました。
細長い石に植物の蔓を編んでつくった紐をくくり墓石にした長男。
墓石の両脇には井戸水を入れた竹筒をおき、竹の柄杓をさして水を汲み墓石にかけられるように。
もう一方は、花が飾れるように…。
だれかから教えてもらったわけでもなく、その一連のふるまいにとても驚きました。
そんな彼は生き物はもちろん、釣りが大好き。
本や漫画をまったく読まない僕ですが、釣りに興味を持っているそんな彼にとそろえたのが…
「釣りキチ三平」
もう何回読んだのだろうというくらい読み込んでいる彼。
夕方はジンケン(オイカワ)釣り。
様々な釣りへの興味をもって、仕掛けを空き缶などで自作したり、夢中になれることができたようす。
そして、川魚を自分で焼いて食べる、ふるまうことにも自然と興味がでてきたようです。
秋のオイカワ毛針釣り。
彼と大きさや数を競ったり、場所を検討したり。
そしてその美しい姿をじっと観察したり。
もちろん「漁労としての釣り」。
いかにして大きなオイカワを釣るか、数をそろえるか、傷めずに扱うかなどの考えはもちろんありますが、そのなかで引き抜くまでの間のオイカワとのやり取りを如何に楽しむか、といった「遊びとしての釣り」も決して忘れない。
カーボンでしかかけられないオイカワもいれば、グラスでしかとれないオイカワもいる…
数ならカーボンですが大型を落とさずにそろえるならグラス…
ほんとかどうかはわかりませんが、最大限に一尾のオイカワとのやり取りや工程を楽しむこと。
それは「漁労としての釣り」において大事だと改めて感じました。
そして美しさに触れること。
動画もぜひ。最高画質にしてみてください。
僕たちがやり取りするのはこういう魚であり、なにより命です。
さらには疑問をもつこと。
アオサギかな?
オイカワから教えてもらえることはとても多いです。
そしてそして、味わい。
漁労としても遊びとしても、僕たちにとっては「生活としての釣り」。
川魚のおいしさというものを知って、普段の生活にとりこむこと。
オイカワを開くのって大変です…がしかし、いったんリズムと工程をさぐってわかってくると、とても面白いのです。たのしい。
今年の僕のオイカワ開きのリズムは、4。
刃物を4回あてることで開ける…というのが収穫物。
たのしくてたのしくて、もっと開きたい…。
そんな気持ちもありますが、到達点はおいしく食べるところ。
「魚を釣る」→「食べる」まさに生活です。
塩水につけて1日干す、2日干す、4日干す…パタンをいくつか試してみまして、できました。
ウグイもあわせて干しました。
そもそもオイカワ干しなんてのはこの辺では聞かないです。
まず開こうとは思わないでしょうし、でも西日本ではなれずしにするようです。
4日干しはあめ色に。
2日干しは淡い身色。
冬をまえにして餌を食い込むオイカワ。
脂も蓄えています。
この艶。
干しても美しい…
お魚グリルですが軽く焼きます。
水分が結構抜けていますから、あっという間に焼けます。
お皿に盛ると…
少々進撃の巨人感がありますが…
脂で光っています。
表面はわりと生きていたころの雰囲気を残しています。
目もまるで生きているようです。剥製のようです。
ごはんにのせて…
お茶をかけて…オイカワ干し茶漬け。
これはちなみに昨年の雑魚茶漬けですね。
寒暖差の激しいこの季節から冬にかけて、朝はこの一杯が胃にもやさしい。
そしてなにより、最高においしいのです。
「釣り」は漁労であり遊びであり、そして何より「生活」です。
重要なたんぱく源です。
川魚料理。
それは地域に残る伝統的な調理方法などがあり、試してみたいものも数多くあります。
でもただ単にそれをなぞらえるだけでは、どこかつまらなくも感じる…。
川があり、新鮮な魚を得られる環境があり、食卓に自分たちの食料として川魚をのぼらせることができるのだから、自分たちのアイデアで料理を少しずつ創造していったらどんなにたのしいだろう。
食卓でオイカワを囲みながら、あれやこれやと話が弾みます。
未開拓な川魚もまだまだあり、料理方法だっていくらでもあるはず。
「季節をとおして味わう川魚料理」
マイファミリーで構築していきたいと思います。
冬は焼干しだな…ほんとたのしみ。
ここまで書いてどうもしっくりとこない「釣りは遊び」という表現。
命を遊びで扱うなんて…
そんな感情はそもそも人間都合のきれいごとで、自己肯定にすぎないとは十分承知でもやはり…
何があるだろう…ちょっと思いつかないけれど…
一目見たい、手にしたい、触れたい魚との出逢いを求めてする「釣り」。
食べるための釣りとは違ったこの釣りも、僕はずっとすると思います。
だからきっとずっと考え続けると思います。
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